松江ミステリーハンターの鹿介です。
新病院建設が終わった当院ですが、現在の県立プール跡地へ引っ越す案もあったそうです。
結局実現はしませんでしたが、実は当院は過去にも、現在の県立プール跡地へ引っ越す計画があったというお話をします。

当院は昭和11年(1936年)に日本赤十字社島根県支部病院として開業します。
その場所は、現在も診療を続けている土地(母衣町200番地)です。
この土地にはもともと、月支蔵という松江藩の建物がありました。
そこへ明治9年、島根県が「患者を治療する傍ら医学生を養成する」ために松江公立病院を設立します。
このときの記録に「旧藩米蔵ヲ修理シテ講堂、学寮室トナシ」というものがあるそうで、興味深いです。
実はこのとき松江藩の創設した蘭医学校「修道館」で使用されていた書籍なども引き継がれ、現在も当院には「古医書」として保管されているものがあります。
詳細は
こちらさらに!
所蔵する古医書の1つが、「化学遺産」に認定されました!
詳細は
こちら松江公立病院はその後、県立松江病院と改称(医学生の養成は明治19年廃止)し、診療を続けていたのですが、その運営が赤十字にバトンタッチされ、当院の歴史はスタートします。
冒頭の写真の建物は木造で、すでに建て替えが必要な時期であったようです。
県としてはその費用のこともあり、経営を手放したかったようです。
創業時は、はたから見ると土地も建物も県立病院と同じだけれど、看板が赤十字に変わったというものでした。
実は写真に写っている土地も含めた建物は、全て県からの借りものです!
加えて、開業後5年以内に新病院を建設して出ていくという条件付きでした。
いろいろと県議会での攻防があり、何とか日赤に経営を移管したという事情があったようですが、とにかく当院としては、新病院を建てるための土地を買わなければなりませんでした。
そして、その土地こそ現在の県立プール跡地でした。
結果的にその土地へ当院は引っ越しませんでした。
なぜ、そこに引っ越さなかったのでしょうか?

現在の県立プール跡地は当時「法吉村飛地」という名前の田畑でした。
当院が開業した同じ年(昭和11年)に、日本赤十字社による土地取得は完了していました。
しかし、すぐ近くにガスタンクや造船所があり、
騒音や振動、安全性の問題があり、院長の
武藤先生は、
「ここに建てるのはちょっと・・・。」
と思っておられたようです。
また、日中戦争の勃発などで資材は不足し、建設は遅々として進んでいませんでした。
そんなとき、病院の近くにあった女学校が火事で焼失します(昭和13年)。
土地所有関係図

「焼失した女学校再建の土地を探しているらしい」
という情報をキャッチした武藤先生は、
「焼失した女学校の土地と、病院の建設予定地を交換できないか?」
と提案します。
そして、交渉成立!
昭和16年、島根県&松江市&当院の三者間で調印がなされます。
このときの内容が次の①~④です。
少しややこしいのですが、病院としては、病院建設に適した土地に交換できた上、市から5万円の寄付を手に入れました。
次の図の①~③も合わせて参考になさってください。
① 県は女学校の土地を日赤へ譲る
② 松江市は日赤の病院建設予定地を購入し、その土地を県へ寄付する
③ 県は、現在日赤病院の営業している土地・建物を松江市に譲る
④ 松江市は病院建築費として日赤へ毎年1万円を5年間寄付する

この段階で、病院の引っ越し先は変更され、
現在の県立プール跡地への移転は白紙となりました。
それから、約70年経った平成になって、
再びその土地へ引っ越す計画が浮上、
またしても実現することはなかったというのは、
「歴史は繰り返す」ですかね?
土地交換が終わり、少しずつ新病院建設が進みます。
この新病院は、「分病棟」と呼ばれ、結核病棟や看護婦寄宿舎、高等看護学院などが建設されました。

しかし、この建設自体も、太平洋戦争や戦後の混乱で、なかなか思うように工事が進まなかったようです。
そんな中、松江市が、松江地方検察庁、松江地方法務局を新設するための土地を用意しなければならなくなり、
当院の新病院建設の土地の一部と、松江市の所有だった、当院が開業以来診療を続ける土地(母衣町200番地)を交換しました(昭和24年)。
これにより当院は、開業時から仮住まいとして診療を続けてきた土地を正式に取得することとなります。
これを受けて次なる新病院として建設されたのが、円型病棟です(昭和29年竣工)。

上の写真には、開業当初からの建物?も見えます。
円型病棟の廊下はらせん状になっていて、ベッドを2人がかりで運んで3階の病棟まで移動できるという機能がありました。
当時はエレベーターがありません!
当時としては、画期的な建造物だったそうです。
蛇足ですが、松江城の天守閣の中には松江市のジオラマがあります。
そのジオラマにはお城や近隣の建物の模型が見られるのですが、当院はこの円型病棟の模型が鎮座しています!
機会があったらチェックしてみてください!
昭和24年に松江市と交換をした土地には現在でも松江地方検察庁、松江地方法務局があります。
せっかくだったので、その法務局へ行って、旧土地台帳を調べました。
データ化がされていない年代だったので、その台帳は、何やら奥のほうから引っ張り出していただきました。
そしてその台帳が古くて分厚い冊子だったのと、墨書きだったのでびっくりしました。
記録上は、母衣町200番地の土地の所有は島根県から日本赤十字社へ移ったという記録でした。
松江市の所有は記録にはなかったので、調印は済ませたものの、正式な土地取得の手続きはなされていなかったようです。
また私自身、赤十字関係の土地所有者は本社名義ということは話には聞いていましたが、公の文書で目にしたのは初めてであり、貴重な体験でした。
前述の円型病棟も老朽化に伴い取り壊され、その後、新しく立てた「新館」も取り壊され、現在の「本館」が建っています。
長い歴史がありますね。
そして長いブログでしたね。
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
出典:松江赤十字病院五十年の歩み、島根県支部百年史、院友
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